戸畑祇園大山笠振興会紹介
戸畑祇園大山笠行事の成立は享和3年(1803)と伝えられている。
飛幡八幡宮の記録に「享和2年村内に疫病蔓延し、非常に苦しみたるを以って、有志相はかり、御祭神須賀大神に疫病退散、平癒大祈願を執行せるに、大神の大み恵によって、ようやく終息せり、もって翌年7月にこれを祝い山笠を作り、村人これに和したり。もって今日に至る」と記されている。
天籟寺は戸畑の枝村だったので、戸畑と同時に始められたと考えられている。また、中原は隣りどうしの村でもあり、いろいろと交流もあったので、大山笠行事もほぼ同時期か数年おくれて始められたらしい。
当時の人々は天災、飢饉、疫病などの災厄に対して無力であり、その恐怖を取り除くため、神に祈る以外に方法はなく、須賀大神の祭礼、すなわち祇園祭を始めたとしても当然のことと思われる。また、すぐ隣の豊前国小倉城下で、すでに盛大に行われていた小倉祇園祭の影響も見逃す訳にはいかない。
当時の戸畑の状況は
享和3年(1803)戸数163軒 人口は不詳
文政4年(1821)戸数178軒 人口839人
以上のように戸数も人口も未だ少ない戸畑で大規模な山笠と豪華な装飾をもった幟山笠を製作(※)した村人の熱意と団結の強さがしのばれる。この大山笠は昼は幟山笠として町内を担ぎ廻り、夜は豪華な提灯山笠に衣がえして威勢よく担ぎ廻る型式は珍しく、独創的なものとされる。
以後戸畑の街が拡大するにつれ、その受け持ち範囲も広くなっていった。
※例えば西大山笠に残る文政12年の真鍮製宝珠や勾欄、天籟寺大山笠の慶応元年の切幕など、現在の製作費から見てもかなり高価なものであったと考えられる。
八幡神社全景 年代不明。写真手前の土地は、現在浅生グラウンド |
1923年(大正12年)浅生八幡宮(現飛幡八幡宮)、手前の沼地は現在浅生グラウンド |
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1949年(昭和24年)参宮通りを行く西大山笠 |
1949年(昭和24年)頃 戸畑駅前を練り歩く幟山笠 東大山笠 |
1957年(昭和32年)頃の幟山笠 |
1958年(昭和33年)戸畑祇園大山笠 祇園祭五段上げ 中原大山笠 |
1958年(昭和33年)戸畑祇園祭 |
1958年(昭和33年)戸畑祇園祭 |
1958年(昭和33年)戸畑祇園祭 |
1958年(昭和33年)戸畑祇園祭 |
1958年(昭和33年)4月16日 昭和天皇行幸 西日本工業倶楽部にて、提灯山笠を掲げ万歳 |
1960年(昭和35年)4月 小倉博覧会に出展 |
1959年(昭和34年)戸畑祇園大山笠 |
1960年(昭和35年)幟山と人形山笠 |
戸畑祇園 昭和30年代 |
1960年(昭和35年)五段上げ 東大山笠 |
1962年(昭和37年)竣工間際の若戸大橋下で |
1962年(昭和37年)9月 若戸大橋開通式前夜祭 |